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2018年09月25日

沖縄のジャズ喫茶「DIG」での遠い昔のある日

普天間高校の校門の向かいから始まるスズラン通りに入って凡そ50m右側にジャズ喫茶「DIG」が有った。主人はサックスの名手「重田照吉」通称テリー重田。テリーはアルト、テナー、フルートとマルチに演奏ができる。意外と知られていないのが油絵や彫刻もする多才なミュージシャンである。彫刻で沖展にも出展している。ジャズ喫茶を開店する前は近くで画廊喫茶「亜門」をやっていた。何度かコーヒーを飲みに行った事が有る。
その頃「DIG」では不定期ながら昼間練習を兼ねたセッションがあった。店の奥の片隅にアップライトピアノ、隣にドラム、その前にサックスとウッドベースのクワッルテット。馴染みの顔がそろった所で、いつとは無しにテーマとなるスタンダードの一小節をピアノが弾くとすぐさまドラムがスティックを持ち目の前のスネアーをこぎみよく叩く、派生したコードをテナーが鳴くとベースが合の手を入れる。聞き入る我らは体のどこかでそのリズムに同調する。或いは部屋を充たしている音の塊を追いかけて、うつろに目を動かす者や閉じた瞼の中に虹の様な色を幻視する者もいる。時には奏者の指先を注視し視線で音を追いかける者もいる。聞こえる音階をたどりながら自身のメロディーを感じる者もいる。次第に高揚し奏でられる音の行方を想像し想定し裏切られるとその理由がどこに有るのかと記憶の中のフレーズを探す。一つの音符に触発された音の群れが奏者のアドリブであり曲想であり個性と成る。時には思わぬフレーズが出てくる時もある沖縄音階での一小節やスタンダードの短い小節など、ピアノとリード楽器とベースはメロディーも奏でるが、時にはリズムを生むときもある。演奏者の頭にどれだけの曲とコードが詰まっているのだろうか、エリントンがピアノ奏でるチョットしたコードがあのバンドの全体の音を創っていき誰が聞いてもエリントンサウンドと認識する。著名なプレイヤーの音もそこに展開される音の流れや音色に個性があり、全てでは無いが奏者が誰だかを思い浮かべる事が出来る。そんな個性を持つ演奏者同士と聴取者との闘いでもあるセッションは同時にピアノとリード楽器、ベースとの会話でもある。それも幾つかのコードから連想するメロディーや演奏されていくコード展開で引用された曲名を瞬時に思い出す時もある。時にはスタンダードの曲なのにアドリブが始まるとその展開に付いて行けなくなったり、思わぬ展開に驚きを持つ事もある。最初のテーマから自由に優しく激しく時にはゆっくりと展開していく音の群れにその空間は一体となって時を忘れていく。
しだいにセッションは熱を帯びその場の空気は研ぎ澄まされライドシンバルにかぶって出てくるシズルの音の一粒が聞き分けられるような気になる、鍵盤をたたく指が触れた時からハンマーが弦を叩き音が出るまでの時間が見えるように聴覚神経が尖ってくる。ウッドベースの太い舷が二本の指で力強くはじかれて弾いた指の爪に当るかすかな響きを捕らえる。相応しい音階を探しながら指板を上下に移動する指が弦に塗られたヤニの上をすべる心地よい音が聞こえる。時には可愛い女の子を抱える様にその弦の一番高い音を探る。踵をあげて小刻みにリズムを作るハイハットのこぎみよい金属音は鼓動を急がせ高揚する。チューニングされたタムタムとバスドラ、流れる様にクラッシュをたたくスティックは千手観音か。スネアーをブラッシングするとビートは静寂を呼びピアノもそれに答える。その場の奏者も聴き手も空間に満ちた音に同調し響き合い一つの生命体になったかと感じさせる。全員が同じ呼吸と脈拍がシンクロするかようである。お決まりのスタイルで演奏が終わり、全ての目が互いの感動を確認するかのように交差し合う、一瞬が長く感じる間をおいてその場は沸いたような拍手に充たされる。満たされた何とも言えない幸福感と感動が小さなジャズ喫茶「DIG」にあふれた時である。
古希を幾年か過ぎかすかな記憶をたどりつつ音楽と一体となった時の聴覚が楽器の何処を聞いていたのか思い当たる表現を試みた。これもボケ防止か。
  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 23:30Comments(0)

2011年05月28日

ジャズボックスの主人我部氏沖縄に来た

長いこと米国で事業をしている我部氏が突然私の店に来た
以後時々帰省しているとの事。
今年、2月以後の消息は不明!
実に彼らしい。一切の痕跡を残さず又来るのを待とう
サラバ!  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 15:09Comments(2)

2010年04月09日

ピアニスト屋良文雄氏逝く

 ピアニストでライブハウス寓話のオーナーでもある
屋良さんが亡くなったとの情報は昨日8日5時ごろの電話だった。
当店の常連の古くからの友人からであった。
思わず・先月復帰コンサートがあったと聞いたばかりなのに!と。
前々から体の調子が悪く入退院を繰り返しているとの話は聞いていましたが
残念です。
私は屋良さんの演奏を十分聞いて楽しんだ事は少ないのですが、
ある日「寓話」でライブの後、あの独特の話しっぷりで昔の「ジャズボックス」や
「SAV]の事などを話した事が思い出されました。
よく一緒にやっていた津嘉山善栄や、島ちゃんコト武島正吉とは
「ジャズボックス」を通過していった多くのミュージシャン達との
セッションで良く聞いていたことも思い出しました。
やさしい演奏は楽しく、おおらかな印象を与えていました。
沖縄ジャズ協会会長として現在編集中の沖縄のジャズ史の完成を見ず
旅立たれた事はさぞ心残りでしょう。
日本のジャズメンの中で同じ「文雄」の名を持つ
現役の辛島文雄(P)・故南里文雄(TP)と共に名ジャズメンとして
記憶されていくことを願って
 ご冥福をお祈りいたします。  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 17:10Comments(0)ジャズの話

2009年03月02日

沖縄の

エピローグ

 ニューヨークジャズフェスティバルの期間中はカーネギーホールリンカーンセンターラジオシティーホールビレッジバンガードバードランド等毎晩ジャズ漬けであった。
プログラムに無いジャズクラブにも探していった。大体ワンショット付で5ドルの入場料であった記憶である。当時は360円の時代であるから1800円である。その頃の沖縄の物価を考えると高い料金であると思うが、誘惑には勝てなかった。
エルビンジョーンズエリントンソニーロリンズ・あのヤンキースタジアムでの野外コンサートでレイチャールズを聞いた。球場全体が大きな反響を呼び感じた事との無い感動があった。球場はまるでスリ鉢の様で、上の席の人が転げ落ちそうに見えた事を覚えている。
東京を出発する前にもらったスケジュールと注意書きにコンサート会場での写真、録音は厳禁と書かれていたが、小型の録音機とカメラは持参し密かに録音し写真も取った。
コンサートの合間に「SAV」のマッチにある五番外タイムズスクエアーの、その場所に行ってみた。
ベーシストは道を渡っていなかったが、タイムスリップしたような感傷と高揚を覚えている。
「ダダ」を閉めてニューヨークに住んでいた宮平氏の案内でNY近代美術館やソーホ-を巡り、地下鉄でブルックリンに渡り、映画のワンシーンの様なマンハッタン島を川向こうから見る事が出来た。
9・11の時、さまざまな方向からのマンハッタン島の映像がテレビで映し出される時、デジャブーの様にその風景が思い出されるのです。フェスティバルの時、まだあのビルは建設中であり隔世の感がする。
NYの帰りに寄ったロスのホテルはその後ロバート・ケネディーが暗殺されたホテルであった。

 那覇に帰ってから録音を聞く機会をもった。当時、石垣正夫氏がやっていた「サイクロン」で集まった皆と聞いたがあまり良い音ではなく、得るものは少なく耳に残った記憶が一番であった。
写真は今、目の前に一枚だけ残っている。マンハッタン島の南の端のフェリー乗り場付近で鳩と話している老人の写真である。当然にセピア色になり、私のこれからを思わせているようにも感じる。

END  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 13:49Comments(2)ジャズの話

2009年02月23日

沖縄のジャズ喫茶の話

第3小節目のつづき

ジャズボックスが県内ダントツのライブハウス(クラブ?バー?)であった事は南の小さな島としては特筆すべき時代であった。
沖縄のミュージシャン達もジャズやバンドだけでは生活が難しくなり様々な職業を掛け持ちしたり、転職してりしていった時代でもあった。
音楽教室や調律師、先生、タクシー運転手、事業家として全く音楽とは別世界の仕事を始めたり、今は珍しくない葬儀屋の開業メンバーになったりしたミュージシャンもいたと聞いている。
仕事柄飲食の世界に近いので自らスナックや喫茶店を始めた人達もいた。各地にでき始めたリゾートホテルのバーやラウンジでカクテルミュージックを演奏するグループや個人は少なくとも音楽を生業として仕事ができるだけ良い方であったかもしれない。
このような社会的状況下でジャズボックスは夜中から、まるでたまった憂さを吐き出すようにセッションが行われていた。
ジャズが生きていた

ライブハウスとして我那覇・与世山ご夫妻の「インタリュード」のオープンもこのような状況下であったと感じている。
四小節目
 世の中様々な衰退があるが「ジャズボックス」もご多分に漏れずいつしか閉店となり。
場面を松尾一丁目の「20番ホール」に移すことになる。相変わらず我部氏の采配で動き出した「20番ホール」時代にも渡部貞夫等々多くの県外からののジャズメン達がが沖縄でコンサートをする時の2次会会場として賑わっていた。この頃私は結婚しその2次会で渡辺貞夫等とこの場で楽しい一夜を過ごした思い出がある。その時、持っていた彼のレコードにサインを貰い、今でも部屋に飾ってある。
香村(p)氏が「カムズハウス」をオープンし、古堅女史(v)の「コルコバード」もオープンしている。
「ディグ」のテリー重田も店を閉め一時期我部氏の経営しているパシフィックコーヒーに私と共に勤めた事もあった。
その後、沖縄の社会は表面的には落着きを取り戻したかの様に、静かになりジャズの持つ反権力や闘争心、即興性はうすれ、平穏な暮らしが進行していった。
沖縄のジャズ界もいつしか穏やかになって行ったような気がするのは私だけなのだろうか?それとも私がその精神を捨てていったのかもしれない。
   つづく・・・・・・・・・  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 13:52Comments(1)ジャズの話

2009年02月12日

沖縄のジャズ喫茶の話

その頃もう一つジャズ番組があった。RBCラジオでサントリーのスポンサーによる徳田陽子女史の名ガイドで「ナイトインサントリー」である。
地元ジャズメンを表に出し多くのミュージシャンが出演していた。
ライブハウスとして我那覇・与世山ご夫妻の「インタリュード」がこの頃オープンしたように記憶している。
確かテリー重田氏も当時「極東放送」と呼んでいたFMラジオ局でジャズの解説をしていた事があった。
現在は演奏活動の合間を縫って昔の極東放送、今FM沖縄に出演しているようです。
重田氏は絵心もあり彫刻もする多才なミュージシャンである。
彫刻の作品は宜野湾市内の遊歩道に展示されている。
 
 ある時のコンサートで私と徳田女史と重田さんの3人がステージに上がってMCをしたことがある。
個人的に仲が良かったミュージシャンがマチューこと「松堂好男」氏である。私は少し気取ってピアノを師事してもらったが、天分の無さを悟り聞くことに専念する事とした思い出がある。
氏はその後内地に移り「金井秀人」のコンボに入り活躍した。数年前に帰沖し中部方面を活動の場として
子供達にジャズを含めた音楽活動をしている。
昔の話が出たことで思い出したトランペッターに「島袋」さんと云うミュージシャンが居たが、
復帰後内地に渡りテレビにも出るようなビッグバンドで活躍していると、流れてきた話があったが
今はどうしているのかな。素晴らしいハイノートを聞かせてもらった記憶がある。
  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 14:30Comments(2)ジャズの話

2009年02月08日

ジャズ

三小節目
 入れ替わるように牧志一銀通りの安木屋近く、木造平屋の一角に突如
天井も低く、カウンターと壁際の小さなテーブルが3席、奥にチョットしたステージがあり、紫煙がたぎる、けして明るく清潔でモダンでない安酒場風の様な
ジャズ喫茶?クラブ?「ジャズボックス」が我部氏の手でオープンした。
ダダ」にも通っていた氏は、後に私も勤めることになるパシフィックコーヒーの経営者であった。我部氏と森氏は旧知の間柄でその頃から渡部貞夫、
山下洋祐、日野兄弟、向井滋春、渡部香津美、中本マリ、山本剛等々多くの名プレーヤー達を招聘し沖縄ジャズ界を刺激し、一時代を築いた。
このような中で地元ジャズメンの国仲勝男(b)が山下洋祐に見出され、
メジャーデビューした事は特記に値する。その後国仲は山下と伴に各地を巡りスイングジャーナルのベース部門人気ランキング上位にもなった。
表に裏に森氏の影響力あってのことである。
週末の深夜いつもの様に始るセッションは時に激しく、切なく、眠たく。ここで多くのジャズ狂や、えせジャズファンを魅了し、刹那的出会いや、旧交を温める出会いが交わされたいた。思い出してみると、それは、まるで映画のように行われていた。
新進のミュージシャン達がセッションに飛び入りで参加したり。
何処かでコンサートに来ていた内地のミュージシャンが分け入ったりして、
沖縄に「ジャズボックス」ありと云う時代であった。
時には危ない煙も回り、ジャズ論議が酔いと共に口論となり喧嘩となり、
あまりの騒音に110番騒ぎとなった事もあった。
         つづく・・・・・・・・・  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 17:50Comments(0)ジャズの話

2009年02月02日

沖縄のジャズ喫茶の話

2小節目のつづき
私が東京時代聞きに行ってたジャズ喫茶は「デグ」「チグサ」「ダグ」等々そして「SAV」であった。
今でもはっきりと記憶にある店のマッチのデザインは、ニューヨーク5番街タイムズスクゥエアーをケースに入れたウッドベースを小脇に抱えた黒人ミュージシャンが横切っている写真である。
明らかにジャズメンであることが解る白黒の写真。巨人「ミンガス」か?
 沖縄銀行本店裏の筋に面したこの場所は、むかし日本旅館だった建物の一階を改修し、あの宮平氏がデザインし「SAV」が沖縄で再開したのである。その頃私は比嘉女史に頼み、自分の番組にそのコレクションの一部を使用させて頂いたことも多々あった。仕事休みの日などは、ひがな入り浸り聴いていた事もあった。今は立派なビルに建て替えられて面影はないが、当時のコレクションはすべて健在である。いまや文化財的コレクションと思う。
個人的にそのコレクションを譲り受けて趣味のジャズ喫茶(BARか?)をやりたいと思うが、なかなか〇が集まらない。
比嘉女史にその事を相談に行ったら「貴方がSAVを引き継いでくれるなら喜んで」と云っていただいたが、未だ実現せず、自身の不甲斐なさを感じているこの頃です。
「SAV」が開店して暫くの後「ダダ」は人手に渡り新しい経営者の下で経営されていたが、次第に廃れていった。
                                3小節につづく  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 14:16Comments(0)ジャズの話

2009年01月31日

沖縄のジャズ喫茶の話

二小節目
 那覇の「ダダ」は自身のアトリエを潰し店内を広げライブが出来るようになり。夜な夜な、仕事がはねた後のバンドマンやジャズメン達が集まりセッションがあったりして実にジャズらしい世界があった。復帰後の混沌とした時勢の中、まるで世間の混迷を映すかのように、様々な人間模様が「ダダ」を取り巻き、そこで生まれた多くの芸術的、文化的、思想的あるいは演歌的状況は今となってはアンヤタンヤーの世界である。
 ここで忘れてならない人物が森聡氏である。宮平氏等と共に本土から多くのジャズメンを呼び、コンサートを開いた。日野皓正、山下洋祐&タモリ等々
森氏は、今でも本土のジャズメンとの信頼関係を持ち続けている人物である。石垣のあの「バードランド」の森泉君とは親戚にあたる。氏の事については後に再び触れることとなる。
そのほかにも復帰前後には多くのジャズが聴ける喫茶店があったが、復帰後の沖縄ジャズ喫茶界で大きなエポックは、あの東京渋谷道玄坂の「SAV」が久茂地沖縄銀行裏に越してきたことである。レコードプレーヤーの名品「ガラード」と名器「JBL]を配しジャズの宝庫「ブルーノート」の名盤をはじめ約1千枚のコレクションは見事なものであった。オーナーの比嘉武子女史は今も健在である。
  


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2009年01月25日

沖縄のジャズ喫茶の話

1小節目のつづき・・・

 いつの頃だったか、石垣でジャズフェスティバルを「バードランド」が中心となり開催したとき、聞きに行った懐かしい思い出がある。テリー重田の「トゥバラマー」や与世山澄子さんの「サマータイム」など、沖縄ジャズ界が最も意欲的で華やかな頃だったと思う。本島でも地元ジャズミュージシャンのコンサートが琉球新報ホールや市民会館などで盛んに開催されていた。
県外から、日野照正、山下洋輔、等々ビッグネームのジャズメン達がコンサートに出演していた。
 昔日本で唯一のカタカナ名の町であったコザ市のコザ十字路の近くにも半地下のような異様な喫茶店があった、ジャズやロック・ソウルなんでも聞かせている店で、当時のベトナム末期の頃の尋常でないコザの雰囲気のある店であった。店名を確か「サムライ」と言い主はCMでお馴染の/普通のジョートー/の和宇慶氏であった。
今は懐かしい響きの「コザ」であるが、当時は那覇よりも一種独特の町のたたずまいがあり、コザに行くと何がしか胸騒ぎをかんじ少しハイになるような気がした(気分だけだはなく、何かの・・・)。
様々なジャンルの音楽が毎夜ライブハウスで演奏され、まさしくミュージックタウンであった。
ジャンルは違うが沖縄民謡にもコザらしい流れが吹き込み、伝統的な音楽が新たな沖縄民衆音楽へと進化していったと感じている。今その延長線上に「りんけんバンド」・「喜納昌吉」「パーシャクラブ」「ネーネーズ」などもあるのではないか。
                                 つづく・・・・・  


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 17:21Comments(1)ジャズの話

2009年01月16日

沖縄のジャズ喫茶の話

1小節目のつづき・・・

 石垣市に森泉君がやっていた「バードランド」があった。市場の中二階の細長いこじんまりとした店で、窓から遠くに竹富や西表島が見え実に爽やか、都会の中のちょっと暗いイメージのジャズ喫茶とは一味違った店であった。
県外から来島した旅行者のオアシス的な場でもあった。彼の友人が郵便局の近くで「海坊主」と云う今風に云うとカフェの様な喫茶店をしていたが、そこではBGMとしてジャズを流していた。
「バードランド」はその後店を移転したが、今は閉じてしまったと聞いている。先日彼に聞いたら当時のレコードはすべて保存されていると言う。おそらく千枚以上のコレクションがあると思う。
今となっては貴重品である。
もう一つ石垣にはジャズが聴ける喫茶店「ザボン」があった。郵便局がある交差点の角の二階であったと記憶している。オーナーは確か佐久川氏と覚えている。
日本最南端のこのジャズ喫茶が日本のジャズシーンの中で、行ってみたいジャズ喫茶の人気スポットととなり、県内外からのバンドやミュージシャン、ジャズ狂が訪れ、南の島のライブに参加し、暑い熱気で島が沸いた時代があった事を記憶に留めなければいけないと思う。
残念だが宮古島の情報は持ち合わせがない。
                   つずく・・・・・・・・・
  


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2009年01月12日

沖縄のジャズ喫茶の話

これから何回かに分けて最近投稿した沖縄ジャズ協会への原稿を多少書き加えてお話したいと思います。
      「私と沖縄ジャズとジャズ喫茶」
1小節
1小節目
 その頃県内にはいくつかのジャズ喫茶があり、番組で紹介すべく「デンスケ」(移動式録音機)を担いで取材に行った事がある。いま時ならば、携帯式の小型の録音機器は色々あるが、当時はチョットした百科事典一冊程の大きさで結構重い機械であった。
名護十字路のすぐ近くの2階に「城」、今でも営業していると聞いているが不明。
普天間交差点の近くに「亜門」、画廊喫茶風だがジャズが聴ける店だった。その後テリー重田が「亜門」の近くに「ディグ」を開業し、本格的なジャズ喫茶として中部地区のジャズ喫茶とライブの中心となる。何年か経って新しくなった宜野湾市役所の並びのビルの2階に移転したが、
今はもう無い。
もう一つ当時の普天間琉映の斜め向に室内の壁を軍払下げの様な毛布で覆い、異様なムードのジャズやロックを聞かせる店があった。店名は遙か忘却の彼方であるが、主は確か仲間・・と言っていた記憶がある。
また、与那原の三叉路を那覇方面から西原側に折れて200メートルほどの左側に店の名前は失念したが、ジャズが聞ける喫茶店があった記憶がある。
那覇市には、久茂地の「ダダ」を筆頭に、開南から新栄通りに入ってしばらく行った右側に、今でもある喫茶店が「ローズルーム」オーナーは、かつて「ジャズボックス」と云う沖縄きってのジャズクラブ!?に出入りしていた当時20代の青年であった。
もう30年以上も続いているこの店の現在は、一階が普通の喫茶店で2階にビッシリと詰まったレコードがあり、聞く人もまばらで、ゆっくりと往年のジャズが聞ける空間がある。訪ねて行ってみる価値は十分にある。
                              つづく・・・・・・・・・・・・・・・・・・  続きを読む


Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 13:03Comments(0)ジャズの話

2009年01月10日

沖縄のジャズ喫茶の話

これから何回かに分けて最近投稿した沖縄ジャズ協会への原稿を多少書き加えてお話したいと思います。
      「私と沖縄ジャズとジャズ喫茶」
バース・3
宮平氏がラジオ沖縄の山本プロデューサーによるジャス番組に出演していたことから、ある日、宮平氏から私に、やって見ないかと誘いがあり、高校時代放送部にいた事も手伝って臆せず引き受けてしまい、毎週土曜日の夜12時からモンクの名曲をもじって番組の名称は「ジャズ・アバウト・ミッドナイト」、オープニングは「ジ・インクラウド」を使った。
その時からD・J小林徹を名乗り商用電波を足かけ3年以上も私用する事となった。
はその間この番組はスポンサーが付かなかったのである。
使ったレコードは局のライブラリーと「ダダ」のコレクションや私のコレクションそして、親しいジャズ喫茶主人から借りたりもした。もちろん事前に局に出かけ録音することが常であった。
なぜならば、土曜の夜はいつも何かしかワクワクする事が起きそうな気がするから生放送はしなかった。番組では時に20分以上の曲をかける事もあり。デキシーからアヴァンギャルド、まで実に節操のない曲選びであった。
しかし、
年末の最後の曲は反戦歌でもあるMrサッチモの「このすばらしき世界」である。
                          つづく・・・・・・・・・・  


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2009年01月08日

私と沖縄ジャズとジャズ喫茶

これから何回かに分けて最近投稿した沖縄ジャズ協会への原稿を多少書き加えてお話したいと思います。
      「私と沖縄ジャズとジャズ喫茶」
イントロ・2
 当時の「ダダ」にはミュージシャン、画家、ファッション関係者、イラストレータ、デザイナー、印刷、内装、作家、詩人等々いわゆる文系の若者が多く集まってくる云わばサロンの様相を呈していた。復帰が近づくにつれ基地内で演奏していたミュージシャン達が解約され次々とフィリピンバンドに取って代わっていった頃である。
 ある日渡嘉敷氏に誘われて泉崎にあった将校クラブ「ハーバービークラブ」(現在のハーバービューホテル、確か今でも当時の名残で同名のクラブが最上階にあると思う)に憧れのカウントベイシーを聞きに行ったことがある。演奏後、楽屋裏で持っていたレコードにサインをしてもらったが、現在行へ不明。
当時沖縄はベトナム戦争の前線基地の様相を呈していたので、本国から様々なジャンルの著名なタレントが慰問公演に来ていたのである。
 復帰前、金曜日になると軍のクラブで県民にも解放される所があった。瑞慶覧の将校クラブ「タッパークラブ」である。新崎純率いるビッグバンドが多くの米軍将校を聴衆として本物のジャズを演奏ていた。ステージの前にはダンスフロアーがあり興じれば気軽にダンスができるクラブであった。歌姫は平良桂子女史、ネイティブな発音と歌声は美貌も加えて将校達からも絶賛であった。今でも歌う時があると聞いている。  


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2009年01月07日

沖縄のジャズ喫茶の話

これから何回かに分けて最近投稿した沖縄ジャズ協会への原稿を多少書き加えてお話したいと思います。
      「私と沖縄ジャズとジャズ喫茶」
バース
 1971年7月末「ニューポートジャズフェスティバルINニューヨーク」を聞きに行く為に、テリー重田と伴に那覇空港を発った。当時日本のジャズミュージシャンの為のジャズレーベルに「スリーブラインドマウス」という新しいレコード会社が出来たての頃であった。「スイングジャーナル」の企画で全国から羽田に集合したジャズ狂は40人ほどだった記憶である。私とテリー重田は当時ニューヨークで暮らしていた宮平伊知郎氏を頼れることに一抹の不安の中に一つの安心感があった。
イントロ
 さて‘67年帰郷したての頃、那覇市与儀にあった琉米文化センター?で渡嘉敷唯夫氏の解説でジャズレコードの鑑賞会が定期的にあり私も聞きに行き、そこで生意気にも大先輩の解説に横槍を入れたりしたために、では次回は君がやってみたらどうだ!と言うことになり、何回か担当した事がある。今から思うとなんと無謀な事をしでかしたかと思う。     
その頃、久茂地に「ダダ」と言うジャズ喫茶があり、よく通っていた。その喫茶店のオーナーが宮平伊知郎氏である。小さな店に造り付の長椅子とテーブルが四つ、別にテーブル席が二つ、4名ほど掛けられるカウンターの向に2〜3百枚のジャズレコードがあった。氏はインテリアデザイナーでありこの店も自らのデザインで手作りであった。
                                          つずく・・・・・・・・・・・・・・・
  


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