沖縄のジャズ喫茶の話
第3小節目のつづき
ジャズボックスが県内ダントツのライブハウス(クラブ?バー?)であった事は南の小さな島としては特筆すべき時代であった。
沖縄のミュージシャン達もジャズやバンドだけでは生活が難しくなり様々な職業を掛け持ちしたり、転職してりしていった時代でもあった。
音楽教室や調律師、先生、タクシー運転手、事業家として全く音楽とは別世界の仕事を始めたり、今は珍しくない葬儀屋の開業メンバーになったりしたミュージシャンもいたと聞いている。
仕事柄飲食の世界に近いので自らスナックや喫茶店を始めた人達もいた。各地にでき始めたリゾートホテルのバーやラウンジでカクテルミュージックを演奏するグループや個人は少なくとも音楽を生業として仕事ができるだけ良い方であったかもしれない。
このような社会的状況下で
ジャズボックスは夜中から、まるでたまった憂さを吐き出すようにセッションが行われていた。
ジャズが生きていた
ライブハウスとして我那覇・与世山ご夫妻の
「インタリュード」のオープンもこのような状況下であったと感じている。
四小節目
世の中様々な衰退があるが
「ジャズボックス」もご多分に漏れずいつしか閉店となり。
場面を松尾一丁目の
「20番ホール」に移すことになる。相変わらず我部氏の采配で動き出した「20番ホール」時代にも渡部貞夫等々多くの県外からののジャズメン達がが沖縄でコンサートをする時の2次会会場として賑わっていた。この頃私は結婚しその2次会で渡辺貞夫等とこの場で楽しい一夜を過ごした思い出がある。その時、持っていた彼のレコードにサインを貰い、今でも部屋に飾ってある。
香村(p)氏が
「カムズハウス」をオープンし、古堅女史(v)の
「コルコバード」もオープンしている。
「ディグ」のテリー重田も店を閉め一時期我部氏の経営しているパシフィックコーヒーに私と共に勤めた事もあった。
その後、沖縄の社会は表面的には落着きを取り戻したかの様に、静かになりジャズの持つ反権力や闘争心、即興性はうすれ、平穏な暮らしが進行していった。
沖縄のジャズ界もいつしか穏やかになって行ったような気がするのは私だけなのだろうか?それとも私がその精神を捨てていったのかもしれない。
つづく・・・・・・・・・
関連記事