2009年02月08日
ジャズ
三小節目
入れ替わるように牧志一銀通りの安木屋近く、木造平屋の一角に突如
天井も低く、カウンターと壁際の小さなテーブルが3席、奥にチョットしたステージがあり、紫煙がたぎる、けして明るく清潔でモダンでない安酒場風の様な
ジャズ喫茶?クラブ?「ジャズボックス」が我部氏の手でオープンした。
「ダダ」にも通っていた氏は、後に私も勤めることになるパシフィックコーヒーの経営者であった。我部氏と森氏は旧知の間柄でその頃から渡部貞夫、
山下洋祐、日野兄弟、向井滋春、渡部香津美、中本マリ、山本剛等々多くの名プレーヤー達を招聘し沖縄ジャズ界を刺激し、一時代を築いた。
このような中で地元ジャズメンの国仲勝男(b)が山下洋祐に見出され、
メジャーデビューした事は特記に値する。その後国仲は山下と伴に各地を巡りスイングジャーナルのベース部門人気ランキング上位にもなった。
表に裏に森氏の影響力あってのことである。
週末の深夜いつもの様に始るセッションは時に激しく、切なく、眠たく。ここで多くのジャズ狂や、えせジャズファンを魅了し、刹那的出会いや、旧交を温める出会いが交わされたいた。思い出してみると、それは、まるで映画のように行われていた。
新進のミュージシャン達がセッションに飛び入りで参加したり。
何処かでコンサートに来ていた内地のミュージシャンが分け入ったりして、
沖縄に「ジャズボックス」ありと云う時代であった。
時には危ない煙も回り、ジャズ論議が酔いと共に口論となり喧嘩となり、
あまりの騒音に110番騒ぎとなった事もあった。
つづく・・・・・・・・・
入れ替わるように牧志一銀通りの安木屋近く、木造平屋の一角に突如
天井も低く、カウンターと壁際の小さなテーブルが3席、奥にチョットしたステージがあり、紫煙がたぎる、けして明るく清潔でモダンでない安酒場風の様な
ジャズ喫茶?クラブ?「ジャズボックス」が我部氏の手でオープンした。
「ダダ」にも通っていた氏は、後に私も勤めることになるパシフィックコーヒーの経営者であった。我部氏と森氏は旧知の間柄でその頃から渡部貞夫、
山下洋祐、日野兄弟、向井滋春、渡部香津美、中本マリ、山本剛等々多くの名プレーヤー達を招聘し沖縄ジャズ界を刺激し、一時代を築いた。
このような中で地元ジャズメンの国仲勝男(b)が山下洋祐に見出され、
メジャーデビューした事は特記に値する。その後国仲は山下と伴に各地を巡りスイングジャーナルのベース部門人気ランキング上位にもなった。
表に裏に森氏の影響力あってのことである。
週末の深夜いつもの様に始るセッションは時に激しく、切なく、眠たく。ここで多くのジャズ狂や、えせジャズファンを魅了し、刹那的出会いや、旧交を温める出会いが交わされたいた。思い出してみると、それは、まるで映画のように行われていた。
新進のミュージシャン達がセッションに飛び入りで参加したり。
何処かでコンサートに来ていた内地のミュージシャンが分け入ったりして、
沖縄に「ジャズボックス」ありと云う時代であった。
時には危ない煙も回り、ジャズ論議が酔いと共に口論となり喧嘩となり、
あまりの騒音に110番騒ぎとなった事もあった。
つづく・・・・・・・・・
Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 17:50│Comments(0)
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