2009年01月08日

私と沖縄ジャズとジャズ喫茶

これから何回かに分けて最近投稿した沖縄ジャズ協会への原稿を多少書き加えてお話したいと思います。
      「私と沖縄ジャズとジャズ喫茶」
イントロ・2
 当時の「ダダ」にはミュージシャン、画家、ファッション関係者、イラストレータ、デザイナー、印刷、内装、作家、詩人等々いわゆる文系の若者が多く集まってくる云わばサロンの様相を呈していた。復帰が近づくにつれ基地内で演奏していたミュージシャン達が解約され次々とフィリピンバンドに取って代わっていった頃である。
 ある日渡嘉敷氏に誘われて泉崎にあった将校クラブ「ハーバービークラブ」(現在のハーバービューホテル、確か今でも当時の名残で同名のクラブが最上階にあると思う)に憧れのカウントベイシーを聞きに行ったことがある。演奏後、楽屋裏で持っていたレコードにサインをしてもらったが、現在行へ不明。
当時沖縄はベトナム戦争の前線基地の様相を呈していたので、本国から様々なジャンルの著名なタレントが慰問公演に来ていたのである。
 復帰前、金曜日になると軍のクラブで県民にも解放される所があった。瑞慶覧の将校クラブ「タッパークラブ」である。新崎純率いるビッグバンドが多くの米軍将校を聴衆として本物のジャズを演奏ていた。ステージの前にはダンスフロアーがあり興じれば気軽にダンスができるクラブであった。歌姫は平良桂子女史、ネイティブな発音と歌声は美貌も加えて将校達からも絶賛であった。今でも歌う時があると聞いている。


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Posted by 鉄瓶・錆び鉄 at 14:40│Comments(0)ジャズの話
 
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